2020.06.25

北の国際都市 稚内の瀬戸邸

日本最北の街、稚内の岬に立つと北にサハリンが見える。サハリンでは1万年前の石器時代遺跡から道産黒曜石の銛先が出土している。当時の人は海流に乗って移動し、銛で様々な魚、クジラ、トド等を獲ったのだろう。当然、稚内の同時代遺跡からも同じ銛先が発見されている。稚内とサハリンの距離は僅か43キロ。稚内は北の果てではなく、海で結ばれたサハリンとの交易の拠点であり、大海に広がる漁場でもあった。

近代になると、国境線が変わり、サハリンは日本の領土となった。稚内とサハリンは連絡船で結ばれ人と物が往来した。日本の敗戦後はロシア領になった。サハリンから引揚げた多くの日本人が最初に見た母国は稚内で、そのまま住み着いた人もいた。

そして、第2次大戦後に沖合漁業が再開されると、稚内港は漁船の基地として賑わった。稚内沖は、寒流と暖流が交差し、オホーツク海、日本海、ロシアとサハリン沿岸に及ぶ広大な漁場だった。漁業の最盛期は約70年前。市内には多くの漁業会社があり漁船数は60隻、全国各地から集まった漁船員は約1200人、稚内は日本第二の水揚量を誇った。漁船ラッシュに沸く港の近くには、飲食店や商店が立ち並んだ。高給を手にした漁船員やその親方の購買力を目当てに、商人は最上級の着物や工芸品を稚内に持込んだ。親方夫人らが、華やかな色の帯や着物を買い求め、娘には金糸銀糸刺繍が施された結婚式用打掛が用意された。今も稚内には、それらが各家のタンスに眠っているという。

漁港として賑わうと時を同じくして、多くの親方宅が港近くに建てられた。その中で、今も往時の姿を留めているのが、瀬戸常蔵氏の家だ。瀬戸邸の台所には、米炊き竈や擂鉢が残されている。ここで作られた食事は、隣の船員寮にも運ばれた。漁から戻った船員達は食欲旺盛だったろう、厨房器具はどれも特大サイズであり、部屋いっぱいに湯気が立ち込めていた事が目に浮かぶ。

座敷には宴会膳が並ぶ。漆塗りや陶磁器の器が今も残る。新造船祝、大漁・安全祈願、大漁感謝の宴席には沢山の人が招待された。彼らは漁期に合わせて各地から瀬戸家へやって来た。冬は気温零下で荒波の中で操業し、夏でも北の海では「板子一枚下は地獄」の状況は変わらない。だからこそ、漁期を無事終えての送別の宴では、皆安堵し、この座敷でお国訛り丸出しで冗談を交わし、故郷の民謡を披露した。

しかし、この繁栄は長く続かなかった。1977年の国際条約で漁業区域が大幅に削減され、多くの漁船が姿を消した。その後も、漁獲量減少、魚価低迷等で漁船数は減少を続け、2019年、稚内の沖合底曳船は最盛期の10分の一となった。稚内の人口は減り、今の商店街の様子からは当時の活気が想像できない。
瀬戸邸の中に一歩、足を踏み入れると、賑やかだった頃の稚内の暮らしが蘇る。建築材料には最高級の杉や桧葉、欅が使われ、天井や壁には意匠が凝らされ、庭には銘石が並ぶ。私が瀬戸家の豊かさを実感したのは、たった数時間しか滞在しない相撲横綱の為に、普通の5倍サイズで茶室が作られた事。なんと太っ腹なんだろう!

**北海道運輸局事業として当社が作成を担当させていただきました。

**稚内市教育委員会様のご厚意により、旧瀬戸邸の写真を使わせていただきました。