2020.05.28

函館縄文文化センター

今、東北・北海道の縄文遺跡を世界遺産に登録しようという動きがある。世界的にも注目を集めている「縄文時代とは?」そこから、話していこう。

時代は、1万5千年前に遡る。数万年続いた氷河期が終わると、地球の気温が上がり、それによって海水面が一気に上昇した。大陸と繋がっていた日本列島は島となり、周辺の海を暖流と寒流が巡り始め、湿潤で四季のはっきりした気候がつくられた。
森には木の実が実り、沿岸には豊かな漁場が広がり、浅瀬では海藻や貝が採れ、土器で煮炊きをすることで、食べられるものの範囲が広がった。食べ物が十分に確保できるようになると、人々は定住した生活を始め、竪穴式の家が並ぶ集落が日本全体に広がった。縄文時代の幕開けである。

こうした農耕に頼らない持続可能な社会が日本各地で1万年以上も続いた。これほど長い間、集落と外を隔てる壁を必要としない、平和な社会が続いたのは、世界にも例を見ない。それこそが、世界的に注目される理由となっている。

この縄文社会は長らく土に埋もれ、ようやく19世紀になって発見された。土器に縄の文様がつけられていたことから、「縄文」と名付けられ、発見当初は素朴で未開な文化と思われた。やがて、日本各地で発掘が進むと大胆なデザインの土器、繊細で美しいツヤを放つ漆製品、ヒスイの勾玉や、人間を象った土偶などが発掘され、その高い芸術性と深い精神文化が世界の人々を驚かせた。

縄文の人々は全ての物にカミが宿り、人間は魚や動物や草木のカミの命をもらって自分達の命をつないでいると考え、根絶やしにしないよう必要な分だけを手に入れた。それだから、木を倒し、草を抜いて、耕して農地にするのは、自然界のカミを傷つける行為だと思ったのだろう。人々が農耕を選ばなかったおかげで森は残り、生態系が長く保たれた。自然への畏敬の念や共生の思想は後のアイヌ文化にも色濃く残り、今でも彼らの精神の基盤となっている。

ここ函館縄文文化センターは、まさに縄文の遺跡群に囲まれて建っている。神々しくそびえる駒ヶ岳を背にし、海に開けるこの地域には、縄文人の集落が築かれてきた。

集落跡からは縄文の人々の精神文化をかいま見せるものが数多く発掘されている。6千年前の成人の墓から発見された土版には、まるで子供の足型のような窪みがつけられている。これは「死んだ子の形見だったのか?」。

3千5百年前の墓には、中が空洞の土偶が供えられていた。この土偶には漆が塗られ、幾何学的文様が施されている。あまりにも謎めくこの幾何学的模様には、「何かの神話が込められているのだろうか?」。さらに、この土偶は壊されたまま埋葬されたが、それは「死からの再生を願ったものなのか?」。

私たちは古代からの神秘的なメッセージに想像を膨らませる。残された子供の足型からは親子の情愛を感じ、土偶に込められた再生を願う気持ちの切実さは、いかほどかと思いやるのだ。この地では、火山の噴火や気候の寒冷化があったにも関わらず、長い間人々の営みが続き、今に至っている。
(北海道運輸局の事業として当社が作成しました。)