北海道の中央部、恵庭市に位置するカリンバ川の周辺から、最近になって人の住み続けた跡が発掘された。今から約9千年前の縄文時代早期から近世のアイヌ文化まで、長い年月を物語る遺跡であり、川の名にちなんでカリンバ遺跡と名付けられた。その遺跡の低地面からは住居や炉の跡が発掘され、段丘からは、土坑墓が多数見つかった。土坑墓の中には縄文後期の墓があり、その合葬墓に埋葬された人々は豪華な装身具を身にまとっていた。縄文時代の合葬墓からこれほどの数の装身具が発掘されたのはカリンバ遺跡だけである。
縄文時代は、1万5千年前の氷河期の終わりとともに始まった狩猟採集を基盤とした社会で、人々は土器で調理をするようになり、一定の場所に定住した。狩猟採集が主で、農耕に頼らない縄文時代は日本各地で1万年以上も続いた。この時代は、集落と外を隔てる壁を必要としない平和な社会であった。しかし、やがて九州島から始まった水稲栽培を基盤とする社会が本州島の北部まで広がっていった。それとともに、縄文時代は歴史の表舞台から姿を消してしまった。そして長い時を経て、19世紀に縄目のついた土器が発見されると、その土器が作られた時代が「縄文時代」と名付けられた。発見当初は、縄文時代とは素朴で未開な社会だと思われた。しかし、カリンバ遺跡のように洗練された遺物が発掘されると、縄文時代は高い美意識と深い精神文化のあった時代ではないかと新たな認識が生まれている。
恵庭郷土資料館にはそのカリンバ遺跡の合葬墓が再現されている。一つの墓には5人が埋葬されたと推定され、その埋葬状況がイラストで描かれている。中心の人物は赤漆塗りの腰飾り帯を身にまとい、緑泥石岩と琥珀の首飾りをし、その隣に眠る人も同じような首飾りをつけている。その結い上げた髪には赤漆塗りの櫛が3つ挿され、さらに額には、サメ歯と赤漆塗り輪を留め付けた布がまかれていた。そしてこの二人を取り囲むように、同様な櫛や髪飾りを身に着けた人達が埋葬されていた。
この合葬墓がつくられた3千年前の縄文時代後期は、気候が寒冷化したことで、食料が不足し、人口が減少した時代だった。人々は恐れおののき、カミへの祈りを伝える用具を作り、様々な儀式を執り行ったと言われる。このカリンバではどのような儀式が行われたのだろう。私たちは、この神秘的な墓を目の前にして、遠くて近い人々の営みに想像をめぐらせる。
たとえば、カリンバの墓の中央に眠る人はシャーマンで、彼女が死んだ時にお付きの人を殉葬したのではないかと推測できる。また、墓には赤いベンガラを撒き、死者にも赤色をまとわせたのは、死者に命を吹き込もうとしたのかもしれない。赤は血の色で、生きるものの命を意味したと言う。そして、サメの歯は抜けても次々と生え変わるため、再生を意味する。
カリンバの合葬墓が発掘されてからまだ20年しか経っていない。謎は多いが、これほどの装身具を身に着けた人々が埋葬された墓が、カリンバには確かに存在した。
**北海道運輸局事業として当社が作成を担当させていただきました。