2020.06.11

栗山の誇り 道産米の日本酒 小林酒造

北海道の内陸部に位置する栗山町に入るとレンガ造りの堂々とした風格の建物がいくつも見えてくる。これは、1900年から栗山で酒造りを続ける小林酒造の酒蔵であり、3百ヘクタールという広大な敷地に17棟が建ち並ぶ。蔵への入口には直径一メートル近い杉玉がかけられている。杉の枝を束ねて作られる杉玉は、酒造りの安全と美味しい酒が出来ることを祈願する象徴である。

19世紀半ばに北海道の開拓が始まると、日本の各地から広大な大地を開拓する夢を抱いて人々が北海道に移住してきた。こうした開拓者にとって日本酒は祝い事や日々の暮らしに欠かせない飲み物であり、開拓の始まりは酒造りの始まりでもあった。地元の米と地元の水を使ってこそ、その土地らしい酒が出来ると思われたが、気温の低い北海道では当初、酒米を育てる事が出来なかった。そこで、本州の米を取り寄せて、酒造りにあたる杜氏も本州から呼び寄せ、酒造りを始めた。そうして始まった北海道での酒造りだが、一番困ったのは、酒の仕込み時期に気温が零度以下になってしまうことだった。

日本酒は、蒸した酒米と麹を混ぜた中に酵母菌を入れて発酵させて醸造するのだが、気温が低すぎると酵母菌が発酵せず、酒ができなくなってしまう。北海道での酒造りは低温との闘いからはじまった。小林酒造の蔵がレンガ造りなのは、レンガの建物は気密性が高く、室内の温度を管理しやすいからだ。中庭の大釜で石炭を焚き、その熱を地下のパイプによってレンガ造りの酒蔵に送り、酵母が発酵を続けられる温度がやっと保たれた。

北海道の酒造りに炭鉱の物語は欠かせない。19世紀後半にアメリカ人地質学者が北海道の内陸部に石狩炭田を発見すると、多くの炭鉱が開かれ、栗山の隣町の夕張がその炭鉱の中心都市となった。炭鉱では、仕事を終えた鉱夫の楽しみの一つは、酒を酌み交わすことであり、小林酒造の酒は飛ぶように売れた。やがて、第2次世界大戦が起きると酒造業には戦時体制がしかれ、戦時中は小林酒造も苦しい経営を余儀なくされた。

戦争が終わり、日本の経済が急成長した頃、重要なエネルギー源の石炭採掘は絶好調で、それに比例して日本酒の需要が再び高まった。小林酒造では、年間に3百万リットル近い酒を造るほどの勢いだった。しかし、やがて日本の主要エネルギー源が石炭から石油に移行するのに伴い、1970年代になると炭鉱は次々閉山してしまった。石狩炭田で隆盛を誇った炭鉱都市の夕張からは活気が消えていった。北海道の石炭の時代は終わった。

小林酒造は、炭鉱夫たちの喜ぶ酒を造ってきたが、その炭鉱夫の姿はもうどこにもない。しかし、小林酒造の酒の味はしっかり北海道に根づいている。今は、地元の米と水を使い、地元の優れた人材が杜氏をつとめる北海道の酒となった。小林家の初代が百年以上前に建てた蔵は、続く世代によって丁寧に補修を重ねられ、今も現役で活躍する。毎年、冬を迎え、酒造りの準備が始まると、小林酒造には米作りを終えた近隣の農家の人が蔵人として次々に集まってくる。そしてみなで杉玉の下に立ち、美味しい酒が無事にできるように祈願するのだ。
**北海道運輸局事業として当社が作成を担当させていただきました。