釧路湿原を見下ろす丘に立つ人は、誰もが深呼吸をしていた。風は穏やかで、眼下には、平坦な湿原がどこまでも広がる。湿原にはヨシやスゲ、ハンノキの疎林、大きく蛇行する川があり、薄曇りの空が湿原近くまで下りてきている。この景色に出会う為だけに、ここに来る価値がある。人の世は移り変わるが、この景色はこのまま「年年歳歳花相似たり」なのだろう、いや、そうであって欲しいと私は願った。
湿原をどんどん進んで行くと、湖にたどり着き、視界が広がる。ここは塘路湖で、数千年前の昔は海だったという。今では淡水となってイトウやイワナが棲む。「近くの林にはアオサギが営巣し、初夏に雛がかえり、鳴き声が周囲の湿原に満ちる」と地元の人が言う。塘路湖からアオサギの林に目を向けるとニタイト博物館が佇む。ニタイトとは先住民アイヌの言葉で「森と湖」を意味する。
この博物館は、この湿原の森と湖に住んだ人々の「感謝の物語」を1万年前に遡って語ってくれる。人々は動物を狩り、魚を捉え、植物を採り、それを命の糧とした。その為の道具は貴重で、銛先に使う黒曜石は遠くの産地から運ばれ、刃が欠け歪になるまで大切に使い込まれた。死者は、鮮朱の弁柄を敷いた墓坑に生活の道具や装飾品と共に丁重に葬られた。役目を果たした道具たちの魂は、感謝の儀式によって、あの世に送られた。時代とともに、生活の道具が石器から、土器、鉄器と変遷しても、この「感謝の物語」は続いた。アイヌの人々は自然界の全ての物や現象を神と見なして、神事を行い感謝の気持ちを表す。ここ塘路湖に生息する小さな菱の実にさえ感謝の神事を怠らない。
ところが、19世紀半ばには人の手が入り込むようになり、「闘いの物語」が始まる。中央では政変が起き、新政府に敗れた者は、北の果て北海道の監獄に送られた。この森と湖の地にも監獄が建てられ、囚人は一時1400名を数えた。その後、監獄施設は軍用馬訓練施設に転用され、軍馬の飼育は地元の開拓農民に託された。長い間この湿地で苦闘してきた農民は馬を飼い、次に乳牛の飼育へと繋げて、酪農の道を見出すことになった。
日本の高度成長期になると、湿原を工場や農地にするための埋め立て計画が決まった。埋め立てが始まると、湖は汚濁し魚が激減した。湿原では動物の巣や野鳥の営巣地が破壊され、丹頂の雛が相次いで死んだ。この状態を静観してはいられないと、地元の漁師や酪農家が湿原保護の闘いに加わった。当たり前と思っていた湿原の自然があっという間に破壊されるという危機感が高まった。
数十年に及ぶ闘いの後に、湿原は国立公園となり保護が決まった。釧路湿原が「毎年同じ花を咲かせる」のは自然の摂理ではなく、長い間、人々が湿原の生命に感謝をもって敬い、そこに破壊の手が忍び寄ると、「湿原の森と湖」を闘いによって守った歴史があるからである。