2020.05.26

函館五稜郭

高さ約100メートルの五稜郭タワーの展望台から見る風景には遮るものがない。周囲には都会にあるような、ビル群がない。眼下には、くっきりとした星形の城郭が存在感を示す。

石垣と濠に囲まれた城郭内には日本の伝統的な建物が建つ。これは、19世紀半ばに建てられた幕府奉行所を再建したものだ。奉行所は箱館の激動の時代に重要な役割を果たしたが、竣工から僅か7年で解体されてしまった。奉行所の建物が残っていない事が残念だと、市民が長い間訴え続けた結果、解体から140年後に奉行所の主要部分がやっと再建された。

函館が国際港になった頃の話に遡る。1854年、アメリカの圧力に屈し、幕府は260年間の鎖国を終えると、下田と箱館の港を外国船に開いた。箱館港に外国船が入港すると、市中は初めて見る外国船と外国人の姿に大混乱だった。外国船に対応し、地域の安全を守る為に箱館港近くに奉行所が設置されたが、次々と外国船が入港するようになると、奉行所があまりにも港に近く、砲撃を受けたらひとたまりもないことが懸念された。

海からは遠い内陸部に奉行所を移すことが決まり、フランスの星型城塞の図面を参考に築かれたのが五稜郭だ。当時、幕府は西洋技術を取り入れようと欧州へ留学生を送り、西洋式建築や造船に意欲的に取り組んでいた。この時代の流れが西洋式城郭の五稜郭を生んだのだ。

五稜郭建設中の頃の日本では、軍備の西洋化が急務だった。アジアの多くの国が西洋の植民地となり、隣の大国中国でさえアヘン戦争で英国に敗れ弱体化していた。危機感を持った幕府は近代陸軍を設置し、訓練のためにフランスのナポレオン3世に依頼して仏軍士官を呼んだ。士官達は東京に着くとさっそく陸軍のサムライたちに西洋式の砲術や戦術を教え始めた。

仏軍士官による訓練が開始されて半年後の1868年に、大きな政変が起こった。幕府が倒れ、新政府が出来た。東京では仏軍士官による陸軍訓練がただちに中止され、箱館では数年前に完成したばかりの五稜郭が新政府に渡された。この急な政権交代に不満を抱く旧幕府のサムライたちは、命令に背いて新政府に対する戦いを始めた。しかし、彼らは次々に敗れて、京都、関東、東北と追いやられ、ついに北海道に集まり、ここ五稜郭を占拠した。 
この中になんと、仏軍士官ジュール・ブリュネらがいた。ブリュネ達は、かつての教え子が新政府と戦っているのを見て支援しようと、使命感に燃えてこの箱館にやって来たのだ。仏軍人の身分を返上し脱走兵として死を賭しての決断だった。米国映画『ラストサムライ』を見たことがあるだろうか?トム・クルーズが演じた士官のモデルがブリュネだ。
冬の間は新政府による追撃はなく、五稜郭に籠った旧幕府のサムライたちは政権樹立を宣言した。ところが、翌年の雪解けを待ち、新政府軍が彼らの三倍もの兵力を率いて攻めてきた。手にする銃は南北戦争が終わったばかりのアメリカから購入したものだった。日本最後の内戦である箱館戦争は、僅か1週間で新政府軍の勝利に終わった。星形の城郭には、こうした物語が刻み込まれている。
(北海道運輸局事業として当社で作成したものです。)